2009年06月16日

動物系のゼラチン以外にも、植物系のペクチン

動物系のゼラチン以外にも、植物系のペクチン・寒天・カラギーナンなどのゲル化剤で凝固させたものも、広くゼリーとして称されている。動物由来のゼラチンを避け、植物由来のゲル化剤を用いたゼリーを求めるヴェジタリアンもいる。また、狂牛病の影響で、牛由来のゼラチンは敬遠されている。

菓子の分野だけでなく、高齢や障害により嚥下障害を持つ者に対し、液体によって咽ることなく水分を補給する為に、また、食事を食べやすくするために、ゼラチンやペクチンなどを混合してゼリー状するといった工夫にも用いられている。こうした高機能食品は、高齢化社会を迎える日本では需要が高まると予想されており、官民一体となった研究開発が進められている。
テニス
セキュリティ
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仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
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学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー


ゼラチン
ゼリーの元でもあるゼラチンは、動物や魚の骨や皮革や腱などの結合組織の主成分コラーゲンが熱により軟化してできるもので、アスピックだけでなく日本料理に煮凝りといった同種の料理もあるように、動物の肉や魚を骨ごと煮るといった初歩的な料理がはじまった時から、食品として知られていたとも考えられる。精製技術が確立する以前には、製菓用のゼラチンは鹿の角を煮出して作られていた。現在、製菓用には、豚皮由来のものが多く使われている。
ペクチン
果物を糖分とともに煮詰めると、一般的にジャムとして知られている状態になる場合がある事も古くから知られていた。これは、すべての果物や植物に含まれている天然の多糖類の作用によるもので、1825年にその成分はペクチンと名付けられた。材料に対し1%以上のペクチンと約65%の糖分、さらに酸味がなければ固まらず、砂糖の量産化が進んで以降、ジャムなどとして広く料理や製菓に用いられ始めたと考えられている。ペクチンが工業生産されはじめたのは20世紀後半で、ゲル化剤・増粘剤・安定剤などの名称で現代の菓子や食品に広く用いられている。
寒天
テングサ(天草)やオゴノリなどの紅藻類海藻の粘液質を凍結・乾燥させたもので、17世紀後半に日本(現在の愛知県豊橋市)で作られた。羊羹やういろうなどの和菓子などに広く用いられている。1881年には細菌の培地としての有用性が認識され、寒天培地として世界に広まった後、欧米でも食品として認知された。
カラギーナン
アイリッシュ・モス、通称トカチャとも言われる、紅藻類海藻から抽出されるゲル化剤。アイルランド大飢饉の際、アイルランド・カラギーナン地方でこの海藻を食べて飢えをしのいだと言われているのでこう呼ばれている。カラギーナンは熱によって煮とかす他のゲル化剤とは異なる特性を持つ。κ(カッパ)型・ι(イオタ)型・λ(ラムダ)型の3種類のタイプがあり、なかでもκ型は牛乳に含まれるタンパク質カゼインと混ざってゲル化するため、牛乳に混ぜるだけでできるインスタントデザートなどに広く用いられている。

2009年05月30日

用明天皇元年(586年)

穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆(みわのさかう)に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。

用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。

守屋は物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。

4月9日、用明天皇は崩御した。
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守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。

7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。

迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。

守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

廐戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。

2009年04月27日

スペース・シャトルとの連携

計画終了後、スカイラブは8年間は軌道上に滞在すると予想された。そのため、1979年までにスペース・シャトルをドッキングさせ、そのエンジンを使用してスカイラブをより高い安全な軌道上まで移動させようという計画が持ち上がったが、シャトルの初飛行が1981年までずれ込んでしまったため、実現しなかった。また遠隔操作により無人の衛星をドッキングさせる案も出されたが、予算不足のためこれも実現されなかった。

スカイラブはジャイロスコープの交換や燃料の補充など大幅な修繕が必要とされていたが、多くの部分は本来は宇宙で交換できるようには設計されていなかった。しかしながら飛行士たちは熱交換器を取り替えてみせるなどして、宇宙空間でも修理は可能であることを証明してみせた。 スペース・シャトルを使用してのスカイラブ修繕計画は、以下の4段階に分かれていた。

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スペース・シャトルの2度目の飛行で小型のロケットエンジンを装着し、より高い軌道まで移動させる
1982年1月にドッキング用のアダプターを取り付け、1983年8月に飛行士がいくつかのシステムを交換する
1984年3月には動力拡張区画を取り付け、30 - 90日にわたって地球資源探査をする
1985 - 1989年にかけ、追加の補給区画や実験室スペース・ラブなどをドッキングさせ、8人の飛行士が滞在できるように拡張する

2009年04月11日

ラグランジュ点

ラグランジュ点(ラグランジュてん、英語:Lagrangian point、ラグランジュポイント、L点とも)とは、天体力学で円制限三体問題の5つの平衡解を指す名称である。すなわち、2つの物体が両者の共通重心の周りをそれぞれ円軌道を描いて回っている時に、この2体に比べて質量が無視できるほど小さな第三の物体をある速度を与えてこの軌道面内に置くと、最初の2体との相対位置を変えずに回り続けられるような位置が5つ存在する。2体の共通重心を中心としてこれらと同じ周期で回転する座標系から見ると、ラグランジュ点では2体が作る重力場が遠心力と釣り合っている。このために第三の物体は2体に対して不動のままでいることができる。各点はL1?L5という名称で呼ばれる(図参照)。

1760年頃、レオンハルト・オイラーが制限三体問題の解として、主星と従星を結ぶ直線上にあるL1からL3までの解(オイラーの直線解)を発見した。その後、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュが1772年に "Essai sur le problème des trois corps" (『三体問題に関するエッセイ』)という論文を発表し、オイラーの解は一般の三体問題の場合にも成り立つこと、主星・従星を一辺とする正三角形の頂点 (L4, L5) も解であることを示した。この業績によってラグランジュとオイラーはこの年のフランス科学アカデミー賞を共同受賞した。

5つのラグランジュ点はそれぞれ以下のように定義される。

L1は質量M1とM2の2物体を結ぶ直線上で2体の間に存在する。

例: 普通、地球よりも太陽に近い軌道を回る物体は地球よりも短い公転周期を持つが、これは地球から重力で引かれる効果を無視した場合の話である。物体がちょうど地球と太陽の間にあると、地球の重力の効果によって、物体が太陽に引かれる力は弱められる。物体が地球に近ければ近いほどこの効果は大きい。この効果によって L1 では物体の公転周期が地球の公転周期とちょうど等しくなっている。

太陽-地球系の L1 は太陽の観測を行うのに理想的な場所である。この位置にある物体は決して地球や月に遮られることがないからである。太陽・太陽圏観測衛星 (SOHO: Solar and Heliospheric Observatory) はL1の周りのハロー軌道に位置している。地球-月系のL1は最小限の軌道変更で月軌道や地球軌道へ入ることができるため、荷物や人員を月へ行き来させるための中間有人宇宙ステーションの場所として理想的である。

L2 [編集]
L2は質量の大きい2体を結ぶ線上で、小さい天体の外側に位置する。

例: 地球から見て太陽と反対の位置にある物体は普通、地球よりも長い公転周期を持つ。しかし、太陽に加えて地球の重力からも余計に引っ張られるために公転周期は短くなり、この効果によってL2では公転周期が地球と等しくなっている。

太陽-地球系のL2は宇宙空間での観測を行うのに良い場所である。L2付近にある物体から見ると太陽と地球が同じ方向にあるので、太陽光を遮光したり観測結果の較正を行うのが非常に簡単になる。NASAのWMAPは太陽-地球系のL2で観測を行っている。NASAの次期宇宙望遠鏡であるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡も太陽-地球系のL2に置かれる予定である。地球-月系のL2は月の裏側をカバーする通信衛星の位置として都合が良い。

従星の質量M2が主星M1に比べて非常に小さい場合には、L1とL2はM2からほぼ等しい距離 r の位置になる。これはヒル圏 (Hill sphere) の半径に等しく、以下の式で表される。

L3は2体を結ぶ直線上で質量の大きい方の天体の外側に位置する。

例: 3番目のラグランジュ点であるL3は地球から見て太陽の裏側にあり、太陽からの距離は太陽から地球までよりもやや遠い。この位置では地球と太陽が引っ張る力が合わさることによって、地球と同じ公転周期になっている。

太陽-地球系のL3は、SF や漫画で「反地球」が存在する場所としてしばしば描かれた。

L4とL5 [編集]
L4とL5は2体の位置を底辺とする正三角形の3番目の頂点の位置にあり、従星が主星の周りを公転する軌道上で従星に先行する、あるいは追従する位置になる。

L4とL5は正三角形解やトロヤ点などと呼ばれる。

例: 太陽-地球系のL4とL5は地球が太陽を回る公転軌道上で地球の60度先行した位置と60度後ろの位置にある。L4とL5は後述するように摂動に対して安定な平衡点であるため、1969年にジェラルド・オニールの提案したスペースコロニーの設置場所として採用された。このためSFにおけるスペースコロニーの設置場所として用いられることがある。

安定性 [編集]
最初の3つのラグランジュ点は2体を結ぶ直線に垂直な平面内でのみ安定である。これはL1での場合を考えると分かりやすい。L1に置いたテスト粒子を中央の直線に垂直な方向にずらすと、元の平衡点に戻ろうとする方向に力を受ける。これは2体の重力の横方向の成分が足し合わさって引き戻す力を生むためである。一方、軸に平行な成分は互いに釣り合って打ち消し合う。しかし、L1に置いた物体を2体のどちらかに近づくようにずらすと、近づいた方の物体から受ける重力は強まり、より近くへと引っ張られる。これは潮汐力の場合と非常に似ている。

L1, L2, L3は名目上は不安定な平衡点だが、少なくとも制限三体問題では、これらの点の近くに安定な周期軌道が存在することが分かっている。これは完全な周期軌道で、ハロー軌道と呼ばれる。太陽系のような制限なしの多体力学系にはこの軌道は存在しない。しかし、準周期的な(束縛されているが正確に同じ軌道を繰り返し描くわけではない)リサジュー軌道はN体系にも存在している。この準周期軌道はこれまで行われたラグランジュ点を使う全ての宇宙ミッションで実際に使われてきた。この軌道は完全に安定ではないが、比較的小さな労力で長期にわたって目的のリサジュー軌道に宇宙機を留めておくことができる。また、少なくとも太陽‐地球系のL1を使うミッションでは、厳密にL1に宇宙機を置くよりも大きな振幅(100,000?200,000km)を持つリサジュー軌道に置いた方が実際に好都合であることが分かっている。なぜなら、この軌道に置くと宇宙機は太陽と地球を結ぶ直線から外れた位置に保たれるため、地球と宇宙機との通信に太陽が干渉する影響を減らすことができるからである。

対照的に、L4とL5は2体の質量比M1/M2が24.96より大きければ安定な平衡点になる。太陽-地球系や地球-月系など、たいていの場合2体の質量比はこの条件を満たしているので、そのような系ではこの2点は安定である。L4, L5にある物体に摂動を与えると物体は平衡点から離れるが、物体が運動を始めるとコリオリの力が働いて物体の軌跡を曲げ、(回転する座標系から見て)インゲン豆型の安定な軌道を描く。

例 [編集]
太陽-木星系では、トロヤ群と呼ばれる数千個の小惑星が太陽-木星系のL4, L5に位置する軌道を持っており、それぞれ「前トロヤ小惑星群」「後トロヤ小惑星群」という名称が付けられている。太陽-土星系や太陽‐火星系、木星とその衛星の系、土星とその衛星の系にも同様の天体が発見されている。太陽‐地球系のトロヤ点には大きな天体は見つかっていないが、星間塵の雲がL4とL5を取り巻いていることが1950年代に発見されている。また、コーディレフスキー雲と呼ばれる、対日照よりもずっと淡いとされる塵の雲が地球-月系のL4, L5に存在するとする説もある。

土星の衛星テティスはL4とL5に2つの小さな衛星テレストとカリプソを持っている。また、衛星ディオネもヘレネという衛星をL4に、ポリュデウケスをL5に持っている。これらの衛星はトロヤ衛星と呼ばれ、ラグランジュ点の周りを方位角方向に動き回る。ポリュデウケスが最もずれが大きく、土星-ディオネ系のL5から最大で32度離れる。テティスやディオネはラグランジュ点に引き連れている衛星たちよりもずっと質量が大きく、土星はこの2つの衛星よりもさらにずっと大きい。このためにこれら全体の系は安定になっている。

他の同期軌道天体 [編集]
地球の同期軌道天体である小惑星クルースンはある意味トロヤ群天体に似た軌道で地球のそばを回っているが、トロヤ群と全く同じではない。むしろ、クルースンはある2つの太陽周回軌道の片方を占めていて、地球と接近遭遇することによって周期的に2つの軌道を乗り換えていると言うのが正しい。この小惑星は地球に近づくと地球から軌道エネルギーを得てより半径の大きなエネルギーの高い軌道に移る。しばらくすると、地球がこの小惑星に追いついて逆に小惑星からエネルギーを奪い、小惑星はより半径の小さく軌道周期の短い軌道に落ちる。そしてまた地球と遭遇して外側の軌道に移る、というサイクルを繰り返している。このエネルギーの移動によって地球の公転周期、つまり1年の長さは全く影響を受けない。なぜなら地球の質量はクルースンの200億倍も大きいからである。

土星の衛星エピメテウスとヤヌスも同様の関係にあるが、この2つの衛星はほぼ同じ質量なので実際に周期的に互いの軌道が入れ替わる。(ヤヌスの方が約4倍重いが軌道が変わるには十分なほど軽い。)また別の同様の状況として軌道共鳴という現象がある。これは軌道運動をしている天体同士が相互作用によって単純な整数比の軌道周期を持つようになったものである。

とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

2009年03月27日

出歯亀

出歯亀(でばがめもしくはでばかめ)とは、一般に窃視(のぞき)行為やその常習者、もしくは窃視症や窃視趣味、ときには単に好色な男のことを指す。「のぞき」と亀に関係があるわけではなく、これは猟奇殺人事件の犯人であったのぞき常習犯の渾名に由来すると言われるが、詳細は本文を参照のこと。英語では「ピーピング・トム(Peeping Tom)」という言葉が概ねこれに該当する。

この語は使用者によって若干の意味の広がりを持ち、窃視行為そのものを指す場合がある一方で、その行為により性的興奮を覚えること(=窃視症)を示す言葉としても使われる。

出歯亀という言葉の語源は、1908年に遡る。この年の3月22日、豊多摩郡大久保村(現在の東京都新宿区大久保)で銭湯帰りの女性(当時27歳、実は詩人・野口米次郎の元妻)が殺害され、手ぬぐいを口に押し込まれた状態で発見された。この事件が判明の当初より大々的に紙誌で報道される中、以前にも女湯の覗き行為を行っていた「出歯の亀吉」こと植木職人の池田亀太郎(当時35歳)が強姦殺人の犯人として逮捕された。

衆目を集める事件であったために、新聞は捜査の当初から詳細に報道しており、逮捕時には大見出しが紙面を飾った。また、池田が出っ歯という身体的特徴を持っていたことから彼を出歯亀と呼んで報道し、その語は彼を指す言葉としてここで定着したという。このセンセーショナルな事件は「出歯亀事件」として同時代人の心に焼き付き、森鴎外も「ヰタ・セクスアリス」の中で言及している。そして現代にまで出歯亀という語は窃視趣味やその窃視行動を指す語として残り、犯人は不名誉な形で末代まで名を残すこととなった。

疑義 [編集]

真犯人 [編集]
以上が一般的な(あるいは辞書的な)説明であるが、ここには不十分な点が多分に含まれている。

まず何よりも重要なのが、出歯亀こと池田の冤罪説である。取り調べの段階で彼は一旦自供したものの、法廷ではそれを翻し、無罪を主張して徹底抗戦した。被害者が電話交換局長の妻であったことや、当時の習俗の中で地域社会に多大な不安感を与えたことから警察は早期解決を目指して捜査に奔走し、3月31日の時点で嫌疑をかけて取り調べられた者は20名以上、うち5人を勾留したという。それでも犯人検挙に至らなかった警察は引き続き次々と容疑者を拘引するなどし、一方ではおとり捜査も開始した。だがこの経過は(捜査に記者が同行するなどして)逐一新聞報道されており、仮に犯人が報道を見ていたとしたら、それにおめおめと騙されよう筈もなかった。

そのような状況下で池田の逮捕がなされたのは4月4日。彼の自白を以て警察も報道も事件の決着を見なした。だが彼の取り調べが始まったのは前月31日からで、捜査成果の上がらぬ中での厳しい取り調べで得られた自白であったという。また警察がまず容疑をかけたのが、性犯罪の前歴のある者を中心にしていたことにも意をとめる必要がある。

彼がのぞきの常習犯であったという事実に対しては、どの史料も疑問を差し挟んではいない。しかし窃視趣味と強姦殺人(あるいは致死)との間には大きな隔たりがあることも事実である。警察が複数名の中から容疑者を絞り込んだのは、池田の性向は単に女湯を隙間からのぞくことでは飽きたらず、銭湯帰りの女性に悪戯をしようとしたことがあったことからという。

公判で彼および弁護士は拷問による自白に証拠価値は無いと主張した。それに対し検察側は拷問は行われていないと反論している。また、池田の自白による絞殺方法と検死結果とには食い違いがある中で、当人の「一時的な」自白しか証拠が無い以上有罪にするには無理があると、弁護側は主張している。だが地裁判決は無期懲役(徒刑)となり、この点を争点に彼を冤罪と主張する弁護団は控訴審を戦ったが判決は同様。そして再度控訴したものの大審院で上告が棄却され、池田は服役することとなった。

今となっては彼が真犯人だったのか、冤罪であったのかは知る由もないが、現場に残された足跡と亀太郎の足跡が異なるという証言が存在したのは事実である。それを裁判所は証拠能力不十分として採用しなかったのではあるが。また、彼が1913年、わずか5年の後に自由の身となっていることも見逃せない。

出歯亀は出歯だったのか [編集]
俗には、池田の逮捕後、新聞報道で彼の顔写真から「出歯亀」という呼称が使われるようになったという。だがその一方で、事件の弁護人が法廷でそのように呼んだことが契機であるとの説もある。また、当時の新聞が逮捕二日後の報道で、彼の仕事仲間の言葉として「出歯亀」という表現を用い、そこから急速に広まったともいう。

しかしそれのみにとどまらず、些細な……だがある意味ではより重要な疑義がある。「でばかめ」の「でば」が出っ歯(反歯)を意味するものではなく「出張り」すなわち「出しゃばり」を意味していたのだと、例えば高島俊男などは指摘している。

同僚が語ったという「でばのかめきち」とは、その身体的特徴をあげつらうものではなく、何にでも首を突っ込みたがる彼の日常的な行動パターンを指して「出張(でば)」と呼んでいたものが、記者の誤解かあるいは「出っ歯の男が女湯をニタニタ覗いているイメージ」の鮮烈さのゆえにか大きく報道され、日本語の慣用表現として後代まで残ることとなってしまった可能性も実は低くはない。現在では国語辞典に至るまで、彼が生来出っ歯であったことを前提として書かれているが、その根拠は実のところ薄く弱い。

誤記のはじまりの原因が後者だとすると、当時既に「出っ歯=好色」という図式があったことになる。だが、あるいは逆にこの事件を境にそのようなイメージが生まれたのかも知れない。なお歯科医の立場からは、歯の噛み合わせと好色とには相関関係は無いとされる。

その他 [編集]
時代が下って、「出歯亀」という語は日常生活では比較的軽い意味で用いられるものになっている。ただしさらなる時代の変化に伴い、これが使用されること自体が減りつつあるのかもしれない。というのは簡単なクイズ本(あるいはウェブ上の同様のもの)を俯瞰すると、「出歯亀とは何か」という出題が散見されることから類推される。常識クイズの題材となるということは、既に常識の範疇から外れつつあるのかもしれない。なお現代のいわゆる狭義の出歯亀行為は、暗視鏡や赤外線カメラを用いて野外性交の現場を観察あるいは盗撮(これをエロ系写真週刊誌に投稿して利益を得ている)することを指す。ちなみに、この観察に限れば、倫理的問題はあるが犯罪行為ではない。

「出歯亀」の読み仮名は「でばかめ」「でばがめ」の二種類が使われており、かな漢字変換の辞書によっては一方のみの登録となっている。これは幾多の国語辞典がそのようになっているからと思われ、語源からすると前者に分があろうが、後者もまた人口に膾炙している模様である。

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2009年03月11日

ソルテア(Saltaire)

ソルテア(Saltaire)は、イングランドのウェスト・ヨークシャー州ブラッドフォードにあるヴィクトリア時代のモデル・ヴィレッジ(model village)である。エア川とリーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)の流域にある。この町はユネスコの世界遺産登録物件であると同時にヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つでもある。

ソルテアは開明的な産業家サー・タイタス・ソルト(Titus Salt)によって1853年に建設された。ソルテア(Saltaire)という町の名前はソルト(Salt)とエア川(Aire)を組み合わせたものである。彼はブラッドフォードで5つの工場を経営していたが、それらを全てこの地に移転・集約した。その目的には労働者たちの処遇をブラッドフォードでのものよりも向上させる事や、運河や鉄道による地の利を活かして巨大な繊維工場を作る事が含まれていた。彼は建築業者として、ブラッドフォードのロックウッド・モーソン社(Lockwood and Mawson)を雇った。

類似の計画は、同じウェストヨークシャー州内のコプリー(Copley)ではエドワード・アクロイド(Edward Akroyd)によって数年早く開始されていた。また、ソルテア同様世界遺産になっている綿製糸工場の村ニュー・ラナークは、もっと早く1786年にデヴィッド・デイルによって建設されていた。

ソルトはブラッドフォードのスラムよりもずっと上質な小綺麗な石造家屋を労働者たちのために建ててやり、水道のある洗濯所、浴場、病院なども建てた。さらに、図書館や読書室、コンサートホール、ビリヤード場、科学的な研究室、スポーツジムなどを備えた娯楽・教育施設も建て、施設救貧院、村民向けの菜園、公園、ボートハウスなども整備した。

タイタス・ソルトは1876年に歿し、会衆派教会に敷設された霊廟に葬られた。さらにソルトの息子も亡くなると、村はパートナーシップに引き継がれた。そのパートナーシップには、ホワース(Haworth)出身で12歳から村の工場で働いていたジェイムズ・ロバーツ(James Roberts)も含まれていた。彼は毎年ロシアに行き、ロシア語に堪能だった。彼はソルテアを保有することになったが、ロシアに過剰に投資していたため、ロシア革命でいくらかの損害を蒙った。また、彼はリーズ大学にロシア講座を寄贈した。彼はT・S・エリオットの詩『荒地』(The Waste Land)でも言及されており、没後イーストサセックス州のフェアライト(Fairlight)に埋葬された。

今日のソルテア
2001年12月にソルテアはユネスコの世界遺産に登録された。これはつまり政府がソルテアの保全の義務を負ったということである。村は確かにかつての姿を十全に保ってはいるが、エア川の渓谷は東西交通の要路であることから、交通量の多さによって所々傷んでいる部分もある。また、蛮行によって荒らされた公園の修復も要請されている。

村の建造物群は個別に重要文化財建築(listed buildings)に登録されており特に会衆派教会の教会堂は保護レベルが最高(グレード1)になっている。ソルテア自体も当然、保全地域(Conservation Area)である。

かつて娯楽・教育施設だった建物はヴィクトリア・ホールと改称され、ヴィクトリア朝リード・オルガン博物館(Victorian Reed Organ Museum)がホール内に開設されているほか、集会、コンサートなどに使われている。
バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

ソルテア・フェスティヴァル(en:Saltaire Festival)も開催されている。これはもともとソルテア開村150周年を記念して2003年に開かれたものだが、以降毎年9月に11日にわたって行われている。

バイパス案
ソルテアは他の世界遺産物件などと同じく、世界遺産としての空間的コンテクストを守るために、周辺に緩衝地域(バッファー・ゾーン)が設定されている。しかし、この緩衝地域を通るバイパスの計画がブラッドフォード議会とアクション・エアデイル(Action Airedale)から発表された。あわせてソルテアの村自身に似つかわしくないトンネルを掘ることも発表された[1]。 ミルからの見晴らしの範囲内で、トンネルに敷設された鉄道が走り、会衆派教会の裏手から出てくることになるのである[2]。そして鉄道はリーズ・リヴァプール運河を並走し、保全地域に大きなインパクトを与える可能性が高い。計画されているルートは、古い半自然の森林庭園やナブ・ウッド墓地の森林庭園にも影響を及ぼすことになる[3]。

今日のソルツ・ミル
ソルツ・ミル(Salts Mill)は1986年に操業を停止し、翌年に複合施設として生まれ変わった。現在は商業、レジャー、居住用などが組み合わさっている。メインの建物に入っているのは以下のものである。

1853ギャラリー(The 1853 Gallery)
いくつもの大部屋に、ソルテア生まれの芸術家デイヴィッド・ホックニーの絵画、図面、フォトモンタージュ、舞台セットなどが展示されている。
エレクトロニクス会社のペイス・マイクロ・テクノロジー社(Pace Micro Technology)を含む製造業者
様々な店舗
2006年には書店、宝石店、アンティークショップ、紳士服店、自転車屋などがあった。また、アルヴァ・アールトやフィリップ・スタルクが手がけた品物を扱う家庭用品店などもあった。
レストランや喫茶店
運河をはさんだ向かい側には地元の国民健康サービス(National Health Service Trusts)の事務所と居住区画に分かれている「新工場」(The "New Mill")がある。

2009年02月23日

アラム語

アラム語 は、かつてシリア地方、メソポタミアで紀元前500年?600年頃に話された、セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語などと同じ北西セム語に属す。

アラム人によって話されて各地に広まり、アラム文字で書かれた。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ

紀元前1000年前後にアラビア半島から出現したアラム人は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、話者人口とその活動範囲を一挙に拡大した。続くアッシリア帝国、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア帝国などの大帝国でもアラム語が使われ、国際共通語としての地位を確立した。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。

アラム語は二つのグループに分けられる。

西方アラム語は、かつてアラビアのナバテア人、パルミラ人、パレスチナのキリスト教徒やアラム人ユダヤ教徒によって話された。イエスは西方アラム語の方言を話した。現在はシリアのマアルーラ (Ma'aloula) 村など三つの村で話される現代西方アラム語を除いてまったく消滅している[1][2]。
東方アラム語は、シリア語 (Syriac) やマンダ語 (Mandean)、現代アラム語などを含む。これらのいくつかは、シリア・イラク・イラン・トルコ・グルジア・アルメニアのいくつかの村で話されている。アラム語を話すユダヤ教徒の一部は、現代のイスラエルとロサンゼルスへ移住した。ロサンゼルスでは毎年、アラム語の母語話者のコンベンションがある。キリスト教の聖書のアラム語版はシリア語の方言であり、主の祈り (Lord's Prayer) の上で記事を見つけることができる。
現代アラム語は、「自称アッシリア人」によって話されるので、「アッシリア語」とも呼ばれている。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授が現在、現代アラム語の辞書を編纂中である。

聖書とイエスの「言葉」
アラム語は多くのユダヤ教の聖典などで使われている。旧約聖書のダニエル書やエズラ記の一部などや、タルムード (Talmud) のゲマラ (Gemara) 部分、ゾハル (Zohar) などはアラム語で書かれている。

紀元前後の時代、パレスチナのユダヤ人はアラム語を用いた。従ってユダヤ教徒であったナザレのイエスとその弟子らはアラム語で話したとされる(ヘブライ語との説もある)。 ただし、イエスの死後キリスト教が西方に広まる契機となったのは、旧約聖書のギリシア語訳「七十人訳聖書」の成立および、ギリシア語話者(ヘレニスト)であったパウロの伝導による。そのため新約聖書もギリシア語(コイネー)で記されたが、マルコ福音書15章34節には「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[3]とアラム語のギリシア文字による音写が認められる。

2009年02月07日

斯波高経・斯波家兼・斯波家長・斯波義将

斯波 高経(しば たかつね、嘉元3年(1305年) - 貞治6年/正平22年7月13日(1367年8月9日))は、南北朝時代の武将、守護大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏一門の斯波氏。幼名を千鶴丸、通称を孫三郎と称す。父は斯波宗氏(家貞)、母は大江時秀の娘。
ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

清和源氏の一流、河内源氏の名門、足利氏の一門。尾張流足利家の嫡流にあたる。名門ゆえに足利姓の公称を許されており、斯波氏を称するのは高祖父の家氏とも、高経ともいう。室町幕府が成立すると義将が管領となり、父の高経がその後見をつとめた。以後、室町時代を通して斯波氏は三管領の筆頭となった。詳細は斯波氏を参照。

高経の子には、他に斯波家長、斯波氏経、斯波義将、斯波義種がおり、弟には奥州斯波氏の祖となる斯波家兼らがいる。

系図
八幡太郎源義家?足利式部大夫源義国?足利義康?足利義兼?足利義氏?足利泰氏?斯波家氏?斯波宗家?斯波家貞?斯波高経?斯波義将

生涯
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨に応じた足利尊氏に従い、鎌倉攻めに参加する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が行われ、尊氏らが新政から離反すると従う。延元元年/建武3年(1336年)の新田義貞、楠木正成との間で行われた湊川の戦いで戦う。足利尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐らが吉野に南朝を成立させて南北朝時代となり、翌延元2年/建武4年(1337年)には越前藤島で高師泰と金ケ崎城(福井県敦賀市)を攻め、恒良親王を奉じていて北陸落ちしていた新田義貞を破る。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では、はじめ足利直義方、後に足利尊氏方につき、さらに足利直冬に呼応する。

2代将軍足利義詮時代の康安元年/正平16年(1361年)に、それまで執事(後の管領)であった細川清氏が失脚して南朝へ下ると斯波家の力が強まり、高経は康安2年/正平17年(1362年)に子の斯波義将の執事職就任を要請し佐々木道誉(高氏)と対立する。斯波一族は道誉の讒言により失脚(貞治の変)するが、義将の幕政復帰後も斯波氏と細川氏の対立構図は残り、3代将軍足利義満時代の康暦の政変へとつながる。貞治6年/正平22年(1367年)に杣山城(福井県南越前町)で死去。享年63。法名は東光寺(のち霊源院)殿道朝日峯。

官職および位階等の履歴
※日付=旧暦

1337年(建武4・延元2)1月29日、従五位下に叙し、右馬頭に任官。
1342年(暦応5・興国3)1月15日、従四位下に昇叙し、修理大夫に転任。
1362年(貞治元・正平17)出家し、道朝と号す。

斯波家兼
斯波 家兼(しば いえかね、? - 1356年(延文元年/正平11年)6月))は南北朝時代の武将。斯波氏の一族。斯波家貞の子。斯波高経の弟。大崎直持、最上兼頼の父。初名は時家。千代鶴丸。彦三郎。式部大夫。伊予守。

兄とともに足利尊氏に仕え、若狭守護を務めるなど当初は北陸において活動し、兄と協力して新田義貞を滅ぼした。観応の擾乱の際には、直義方の兄の高経とは同調せず尊氏方に味方した。1354年に奥州管領に任命され、奥州に下向し、中新田城を拠点とした。前探題の吉良氏、畠山氏、石塔氏との対立を克服し、管領職(後の奥州探題)の世襲を確立したとされる。

なお、家兼の奥州下向年は1339年とする説もあるが、信憑性は低い。 のちの大崎氏、最上氏、天童氏の祖であり、また、斯波家長の末裔とされる高水寺斯波氏も、家兼から分かれた一族とされることもある。

斯波家長
斯波 家長(しば いえなが、元応2年(1321年) - 延元2年/建武4年12月25日(1338年1月16日))は南北朝時代の武将。斯波氏当主斯波高経の子。斯波義将の兄。斯波経詮の父(養父?)。孫二郎。陸奥守。志和三郎、尾張弥三郎とも。関東執事。奥州総大将。

足利尊氏に父と共に一門の重鎮として仕えた。中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると宮方の北畠顕家に対抗するため奥州と羽州の軍事指揮権を持つ奥州総大将に任ぜられた。尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる征東軍を破ると上洛する。その際、嫡子足利義詮を鎌倉に残し、その執事(後の関東管領職)に任ぜられた。しかし、顕家の南下を食い止めるのに失敗し、尊氏が一時敗走する原因を作ってしまった。

のちに九州を制し再び上洛した北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つものの、またも敗北し家長は戦死した。

なお、後任の奥州総大将には石塔義房が派遣されている。奥州総大将職は後に奥州管領職に発展する。

家長の末裔がのちの高水寺斯波氏とされている

斯波義将
斯波 義将(しば よしゆき/よしまさ)、観応元年/正平5年(1350年) - 応永17年5月7日(1410年6月9日))は南北朝時代から室町時代の守護大名である。斯波高経の4男。妻は吉良満貞の娘。子に斯波義重(義教)、渋川満頼室。通称は勘解由小路殿。

清和源氏の一流、河内源氏の名門 足利氏の一門。尾張流足利家の嫡流にあたる。斯波氏を名乗るのは高祖父 家氏とも父 高経ともいう。三管領筆頭となる(詳細は斯波氏の項)。兄には斯波家長、斯波氏経、叔父には奥州斯波氏の祖となる斯波家兼らがいる。

八幡太郎源義家 - 足利式部大夫源義国 - 足利義康 - 足利義兼 - 足利義氏 - 足利泰氏 - 斯波家氏 - 斯波宗家 - 斯波家貞 - 斯波高経 - 斯波義将

生涯
2代将軍の足利義詮の頃の足利幕府では、将軍を補佐する執事(管領)であった細川清氏が康安の政変で失脚し、南朝に属して京都に侵攻したため幕府は討伐を行い、執事職は空席となる。康安2年/正平17年(1362年)、13歳の義将は斯波氏の縁戚であった有力守護の佐々木道誉の推薦で執事となり、越前の他に越中の守護職を与えられた。父の高経が義将の後見として幕政を指揮するが、貞治5年/正平21年(1366年)8月の貞治の変では、細川頼之と結んだ道誉などのため失脚して越前に逼塞する。後任の管領には道誉らに推薦され頼之が就任。

貞治6年/正平22年(1367年)、義詮が没し頼之が管領職として幼い3代将軍の足利義満を補佐することになる。父の高経が越前で死去すると、義将も帰参を許され幕政に復帰する。義将は義詮正室の渋川幸子とも結び、越前の所領において国人と守護代との騒動などから頼之と対立することもあり、反頼之派の勢力となる。この勢力には道誉の没後に頼之と不和になった佐々木高秀も加わった。康暦元年/天授5年(1379年)、義将は高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合して兵を用いて将軍邸である花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を求め、頼之を解任させて自身が管領に任じられるクーデターに成功する。これを、康暦の政変という。頼之に対しては一時は追討令が出るがその後赦免され、義満の将軍権威が確立して主導的な執政が行われはじめると義将の政治的立場は危うい状態になり、明徳2年/元中8年(1391年)には義将が管領から解任され、頼之の弟の細川頼元が管領となる。頼之が明徳3年/元中9年(1392年)に没すると再び幕政に参与し、義将は管領を5回、18年にわたって幕政に参与した。九州探題の今川貞世(了俊)の解任にも関与しているとされる。将軍・義満が出家すると追従して出家し、道将と号した。応永6年(1399年)に大内義弘が挙兵した応永の乱の討伐にも従軍。

応永15年(1408年)の義満の死後は、子の斯波義重を管領職にさせ、宿老として4代将軍の足利義持を補佐する形で重用された。義満の後継には公家社会などから義持の弟・足利義嗣が支持されるが、義将はそれを事前に押さえている。さらに朝廷からの義満に対しての太上天皇追贈を先例のない事を理由に辞退させ、日明貿易(勘合貿易)の停止を勧めるなど、義満の死後にその政策を批判した動きをとる。更に応永16年(1409年)6月7日には、出家の身で4度目の管領に就任(『教言卿記』他)し、8月1日には11歳の孫の義淳に管領を譲ることで斯波氏による幕政支配を目指したものの、それから程なく応永17年(1410年)5月7日没。享年61。法名は法苑寺殿道将雪渓。

なお、京都における本邸が室町通り勘解由小路にあったため、通称を勘解由小路殿(かでのこうじどの)と呼ばれた。著作に『竹馬抄』がある。

官歴
※日付=旧暦

1362年(康安2・正平17)7月23日、幕府の執事(管領)と就る。時に、治部大輔。
1366年(貞治5・正平21)8月8日、執事(管領)を退く。
1379年(康暦元・天授5)閏4月28日、管領に再度就る。時に、左衛門佐。
1382年(永徳2・弘和2)12月、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。
1391年(明徳2・元中8)3月12日、管領を退く。
1393年(明徳4)6月5日、管領に就る。在任中、左兵衛督から右衛門督に遷任。
1398年(応永5)閏4月23日、管領を退く。
1409年(応永16)6月7日、管領に就る。8月1日、管領を退く。

2009年01月22日

バハラーム3世(Bahram III, ? - 293年)

バハラーム3世(Bahram III, ? - 293年)は、サーサーン朝ペルシア帝国の第6代君主(シャーハーン・シャー、在位:293年)。先代バハラーム2世の息子であり、バハラーム2世によってサカ王(Sakān shāh)として東方を統治していた。

パイクリ碑文によると、ガラマエナの貴族ワフナームに担ぎ上げられた傀儡だったという。ガラマエナの権力を確固たるものにした後で敵を討つという声明を出したため、ナルセ1世が中心となってこれを討ち、第7代君主として即位した。バハラーム3世の治世はわずか数ヶ月であった。
バハラーム2世(Bahram II, ? - 293年)は、サーサーン朝第5代君主(シャーハーン・シャー、在位:276年 - 293年)。先代バハラーム1世の息子である。アラビア文字表記では ????? Bahrām と書かれる。3年で先王が亡くなったため、まだ10代前半の若さであった。

バハラーム2世は統治の初期には暴君的であり、主要な貴族たちに愛想をつかされ、そのため暗殺計画が持ち上がりかけたと言われている。司祭のトップが仲介し、王を説得、行いを改めさせた。そして残りの統治期間は賢明さと寛容が光ったといわれ、どの階級からも支持を受けたという。

バハラーム1世の時にはアルメニア王になることによって納得したナルセだったが、自分の名と肖像を刻印した貨幣を独自に発行する。貨幣の発行はサーサーン朝の君主にしか認められておらず、事実上の独立宣言だった。しかしナルセを討つことは容易ではなく、しばらくは放任しておかざるを得なかった。

この強力な叔父の存在もあって、舅であるメセネ王シャープールとゾロアスター教のカルティールの2人の力で政権を固めた。シャープールは、諸王の筆頭であるアルメニアの王をもしのぐハルグベドという称号を与えられ、帝国で第2位の地位を得る。バハラーム2世が発行した貨幣では、皇帝だけでなく王妃と皇太子、つまりシャープールの娘と孫も共に刻印された。

一方のカルティールは最大の権力を得た聖職者となる。彼は平民出身にもかかわらず大貴族の列に加えられ、帝国全土におけるモーベド(祭司長)兼判事、帝国の故地イスタフル(en:Istakhr)のアナーヒター寺院の管理者兼主監に任命された。さらに、「アフラマズダ神のモーベド」、「バハラームの魂を救う者」という最高級の称号も与えられ、宗教界で並ぶ者のない存在となった。

対ローマ戦争、西方外交
282年、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルスがユーフラテス川を越えてメソポタミアに復讐にやってきた。バハラーム2世は東方アフガニスタンの反乱に処するのが手一杯で、これに対処することが出来なかった。メソポタミア一帯は破壊・略奪され、セレウキアやクテシフォンもローマ軍によって占拠された。しかし、幸運にもカルスは落雷によって事故死(暗殺説もある)。

これによってローマは軍を引き、カルスの息子のヌメリアヌスは和を結んだ。しかし286年、ディオクレティアヌス帝はペルシア戦争を開始する。ペルシアの領域に行軍し、アルメニアの王子ティリダテス(en:Tiridates III of Armenia)がペルシアに反旗を翻したのを支援するためであった。幾度か戦線を交えた後、アルメニアは自由化され、ティリダテスは独立を宣言した。

ティリダテスは彼の治世中、更なる成功を収めた。ペルシアの2個軍隊を会戦で破り、重要な守備拠点を抜いた。これにより疑いようのないアルメニアの支配者となり、ペルシアによって隔たれていたアルメニアの国境も渡り、事実上のペルシア領で象徴的な勝利を収めた。

東方情勢の混迷もあって、バハラーム2世はローマ側に非常に有利な休戦協定を結んだ。この協定は軍部の大きな反感を買い、特にアルメニアを死守したにもかかわらずローマ側に西部アルメニアを割譲させられることになったナルセを激怒させた。ナルセの勢力を削ぐために、あえてローマ側に有利な講和条約を結んだとも考えられなくもない。

対サカ・クシャーン、東方外交
帝国の東方では、バハラーム2世の兄弟(従兄弟という説もある)ホルミズドが、サカ、クシャーン、ギーラーンの諸民族を糾合して大規模な反乱を起こし、治世末期まで悩まされることになった。ローマ皇帝カルスの年代記にホルミズドは「サカの王オルミエス」という名で登場する。ホルミズドは自分の貨幣を発行し、「クシャーンのシャーハーンシャー」という称号を刻んだ。ナルセと違い、ローマという強国に挟まれていないこともあって、ホルミズドは長期にわたって東方をかき乱すことになる。

東方全域を飲み込んだ反乱をようやく鎮圧すると、バハラーム2世は皇太子バハラームをサカの王に任命し、その後まもなく没した。

バハラーム1世(Bahram I, ? - 276年)はサーサーン朝の第4代君主(シャーハーン・シャー、在位:273年 - 276年)。アラビア語・ペルシア語での表記では ????? Bahrām であり、バハラーム、バフラームと仮名表記される。パフラヴィー語そのものでは wr?r'n / warhrān(貨幣銘文など)や w'hl'm / wahrām (後代のゾロアスター教文書など)と表記されたため、ワラフラーン、ワルフラーンとも呼ばれる。帝位に就くまではギーラーンの王としてカスピ海南岸一帯を統治していた。

シャープール1世の碑文、パフラヴィー語の文章によると、バハラーム1世はシャープール1世の次男であると記されている。しかしギリシアの歴史家やアッバース朝時代の歴史家ムハンマド・イブン・ジャリール・アッ=タバリー の年代記である『諸使徒と諸王の歴史』(Ta'rīkh Rusul wa al-Mulūk)ではホルミズド1世の息子、すなわちシャープール1世の孫になっている。

他の3人の王子(ホルミズド1世、シャープール、ナルセ1世)を生んだ妃と比べ、バハラームを生んだ妃は地位が低かったか妾だったと思われる。4人の王子達の中でもバハラームの扱いは低く、シャープール1世の碑文中、彼の名だけは聖火によって顕彰されていなかった。さらにバハラームが統治するギーラーンは、帝国内でも他の兄弟が赴任したものと比べ地位が低い。諸王の筆頭に位置するアルメニア、帝国首都クテシフォン南方に広がる肥沃なメセネ(en:Mesene)、帝国東方の大部分を掌握するサカに比べ、明らかに戦略的重要性は低かった。

バハラームという名は、神の名前を付けることによって加護を受ける意味合いがあるテオフォリックネーム(en:Theophoric name)である。中世ペルシア語でVarahrän(en:Vahram)は勝利という意味であるが、これは本来ゾロアスター教の神、ウルスラグナ(V?r?θraγna)神の中期ペルシア語形である。ウルスラグナ神はパルティア時代にはメソポタミアを中心にギリシア神話の神ヘラクレスと同一視されていたことが知られている。

確認できる文献で最も早いバハラーム1世への言及はナグシェ・ラジャブ(en:Naqsh-e Rajab)の磨崖壁画群での祖父アルダシール1世による戴冠式である。ここではアルダシールとアフラマズダ神の前でより小さい人物として描写されている。そしてVahram神の前でお辞儀をして敬意を表している。同じ様な絵で、イノシシのようなモチーフで印章や王冠に描いている。明らかに勝利のヤザタ(恐らく戦争の勝利を司る英雄神ウルスラグナのことだと思われる)との繋がりを強化しようとする意図であった。

4人の王子達のなかで、バハラームは最も信仰心に厚く、敬虔なゾロアスター教徒として名をはせていた。兄ホルミズド1世が急死したとき、次の皇帝は三男メセネ王シャープールか四男サカ王ナルセが有力であった。血統で劣るバハラームは、マニ教の流行を憂慮するゾロアスター教団と協力することで帝位に就く。

シャープール1世、ホルミズド1世は寛容な宗教政策を取っていたため、マニ教の影響力が強くなりつつあった。ゾロアスター教の最高権力者カルティールは、メセネ王シャープールの支持を得ることに成功し、バハラーム1世がナルセを抑えて後を継いだ。ナルセはその代償としてアルメニア王位についた。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

西方国境のアルメニアでローマ帝国と対峙するナルセは、強大な軍を支配下に置いているだけではなく、声望の点でもず抜けていた。彼の動向次第では皇太子バハラームの地位が脅かされないとも限らなかった。そこでメセネ王シャープールの娘と皇太子バハラームを結婚させ、ゾロアスター教団とのつながりを強化し、その地位を磐石なものにした。

低い血統であるバハラームは他の手段によって自己の権威を高めなくてはならず、名声の高い兄ナルセの存在と息子への安定した継承が次のような政策へと繋がった。すなわちゾロアスター教一尊化の始まりとマニ教への弾圧といった状況は彼の政治的環境から生まれたものだといえる。在位期間が短かったということもあるが、パルミラなど対ローマ外交で有力な策を打ち出せなかったことは、強力な軍事指導能力を持つナルセ1世を待望させることになってしまった。

マニ教の迫害
ゾロアスター教団の大神官長(モウベダーン・モウベド)であったカルティールの進言の下、バハラームはマニ教の開祖、預言者マニを死刑にした。マニはシャープール1世に自らの思想を解説した『シャーブフラガーン』(Šābuhrgān)という著作を献納している。天山ウイグル王国時代のトルファンなどから出土したマニ教文書類の断片によれば、マニは刑が執行される前に刑房でそのまま死んだようである。しかし、後世のマニ教徒たちが残した宗教文書類や流布した伝説では、マニの死を殉教譚として誇大に喧伝したり潤色したものも多かったようで、皮をはがされたマニが生きているという噂は残り、アラビア語の逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、時々シャープールの都市の門の一つに吊るされていた、というものもある。

バハラーム1世の統治政策上、預言者の死刑は必然的にマニ教の迫害へと繋がっていく。マニ教はその当時、比較的良く確立されていた。信教指導者のヒエラルキーが構成され、多くの聖職者によって支えられていた。12使徒、72の司教などからなっていた。彼らの多くがゾロアスター教の聖職者の下に引きだされた。カルティールを中心とした聖職者はマニ教を異端と考え、マニ教の追随者は処刑されるか何らかの罰を受けた。

対ローマ帝国政策
ローマ帝国は強力な王シャープール1世の死から、立て続けにホラミズド1世も亡くなったこともあって、バハラーム1世を強力な君主であると認識しなかった。バハラーム1世は対ローマ外交をこなしたとは言えなかった。ローマ領シリア属州南部の境域地帯の主要都市パルミラではセプティミウス・オダエナトゥスの妻ゼノビアが、幼少の息子ウァバラトゥスをアウグストゥスと称させ、自らはアウグスタと自称すると共にパルミラ王国の摂政としての地位を確立、ゼノビアはパルミラの領域をローマ帝国が危惧するまで拡大させた。そこでローマ皇帝アウレリアヌスは、272年にパルミラ討伐の為に親征したことから、ゼノビアはサーサーン朝へ支援を求め、バハラームは部隊を派遣した。しかし、この救援は実らず、ローマとの戦いに敗れたゼノビアはサーサーン朝への亡命を図ったが、ローマとペルシアのリメスとなるユーフラテス川に到達する前にローマ軍に捕縛された。

バハラームはローマ皇帝に和平要請をし、全権公使をローマへ急派する。アウレリアヌスはバハラームの贈り物を受け取り、休戦協定を受諾した。アウレリアヌスがローマで凱旋式を行った274年、ペルシア側の捕虜がなかったにもかかわらず、ペルシア公使は顔を出さなくてはならなかった。この現状に対する部下の不満を抑えるのにバハラームは苦労した。

1年たたずに275年、アウレリアヌスは宣戦布告してサーサーン朝の領域に侵入する。ボスポラスにほぼ到達したとき、秘書の陰謀によってペリントスとビザンティオンの間の小さな駐屯地で、アウレリアヌスは暗殺された。

アウレリアヌスの死から1年後の276年にバハラーム1世は死去し、当時10歳前半であった息子バハラーム2世が君主となった。

2009年01月15日

アカザ(藜、Chenopodium album var. centrorubrum)

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アカザ(藜、Chenopodium album var. centrorubrum)はアカザ科の一年草。畑や空地などに多い雑草で、生長が早く高さ1m程度に達し、特に窒素分の多い土地にはよく育つ。葉はゆでて食べることができ、同じアカザ科のホウレンソウによく似た味がする。種子も食用にできる(同属のキノアC. quinoa は種子を食用にする穀物である)。中国原産で、古くは野菜として栽培され、現在雑草としてみられるものも野生化起源といわれる。「藜の羹(あつもの)」は粗末な食事の形容に使われる。また茎は太く硬くなるため杖の材料にもされた。

アカザの若葉は赤い粉状の微細な粒に覆われ、未熟な葉の細胞を、遺伝子を傷つける紫外線や、光合成に使い切れず葉緑素から活性酸素を発生させて組織を損傷する原因となる過剰な光のエネルギーから防御しているが、この粒が白いものをシロザ(白藜、Chenopodium album)といい、こちらの方が多く見られる。種としてのシロザは世界的に広く分布し、分類学上は普通アカザをシロザの1変種としているが、様々な亜種や変種があって、学名(亜種、変種または同種異名)としてはC. centrorubrum 、C. album var. microphyllum 、C. album var. missouriense 、C. album var. stevensii 、C. album subsp. striatum 、C. acerifolium 、C. giganteum 、C. jenissejense 、C. lanceolatum 、C. pedunculare 、C. probstii などが用いられる。また同属の他種(C. berlandieri 、C. ficifolium(コアカザ)、C. opulifolium(ヒロハアカザ)、C. strictum 、C. suecicum)と容易に交雑する。英語ではニワトリのえさにするためFat Hen(henは雌鶏の意)などと呼ばれる。風媒花であるため花粉が飛散しやすく、アレルギーの原因になる。

アカザの葉を食草とする昆虫にカメノコハムシ(ハムシ科)がおり、食痕のある葉を裏返してみると、扁平な成虫や、三葉虫を髣髴とさせる形態の幼虫がよく見られる。

薬効
茎葉を乾燥して其の煎じた汁を口の中に含めば虫歯の痛みを治し、また生葉の搾り汁は毒虫などに刺された時塗ると良し