近世になっても犬食の文化は
近世になっても犬食の文化は存続していたとされ、松井章などの発掘によると下層民だけではなく上級武士などでも食されていたとされる。例えば姫路城内のゴミの穴からは刃物で傷のある犬の骨が発見されている。また岡山城の発掘時には食肉用の骨の中に混じって犬の骨も出土しており、体の一部分のみ多数出土したことから、埋葬ではなく食用であったものとされている。
鹿児島にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた。
「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり(略)甚美味なりとぞ。 是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり」
ハーブ園芸案内
湯・茨城
かわいい赤ちゃん
茨城の情報
麦茶百科
皮膚と体毛
猫ニャン
ご当地静岡
不動産用語
栃木の湯めぐり
つらい・花粉症
チョコレート戦争
テーマパーク
皮膚科学
インテリアデザイン
芸術
香道
ドッジボール
仏教絵画
アウトドア
江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。そして「生類憐れみの令以前は野犬を見なかった」旨の記述があるので、食べる習慣があったことは確かである。
しかし、徳川綱吉の生類憐みの令で、表立っての動物殺生に対する忌避感が増幅され、犬がとりわけ「将軍家の護神」とされて保護されたことにより犬食の習慣はかなり後退した可能性がある。また、「座敷犬」「抱き犬」として狆などが流行する等、犬食文化の衰退の要因は増えた。